山車七夕・喧嘩七夕

 気仙地方の七夕は、青笹に歌や願いごとを短冊に記してつるすと言う類のものもなくはないが、大きな山車を造り、これを華麗に飾って町内外を練り歩く、いわゆる山車七夕、"動く七夕"が特色であろう。
 勇ましい掛け声、陣太鼓のような賑やかな囃子太鼓、他の集落の七夕とさまざまな形で競い合う意識が旺盛であること等々、いずれも他所ではあまり見られないが、七夕祭に山車を造り、これを引いて町内外を練りあるくというのは、確かに特異なものと言えよう。
 山車七夕は気仙地方の特色と言えるが、その中でも代表的なものは、今も昔もやはり気仙町内の七夕であろう。気仙町がまだ今泉村のころから「今泉の喧嘩七夕」として、近隣に著名であった。昭和の初頭に丹野寅之助氏(当時大船渡線盛駅長)は次のように記している。

気仙町今泉では七月七日になると、未だ夜の開けきらぬ中に起きて、大人たちは竹を立てて屋根を飾る。子どもたちは笹竹に短冊や長い吹流しを結びつける。
 町のお主婦さんや、年寄りたちが揃って掃き清められた打水の涼しい街をユッタリお寺参りに出かける時刻になると、囃し方は予習の意味で太鼓や笛を鳴らす―そのリズムの土臭いこと―
けれどもこの町に育った人達には何よりも懐かしい響きなのだ。やがて昼近くになると、いよいよ山車を町内総出で曳き歩く。心も浮き浮きと髪を綺麗に結いあげ、お化粧をした女や子供達は、手に手に拍子木を持ち、男達の引く二条ののロープの間に入って、ヨーイヨイ、ヨーイヨイと美しい掛け声を張りあげる。「ひけえっ」と高く叫ばれると、その強い声に応じて屋台の周りをかこんでいた人びとが一斉にヨーイヨイを続ける。
 するとギイ、ギイ、ギイ、と、重々しくきしる木車の音と共に、屋台がノロノロと動き出す。それをきっかけに囃し方は喉も裂けよとばかりに叫ぶ。頑健な若者二、三人が丸太棒を自由に使って車の回転を助けるのである。
 みずみずしい夜空に星がきらめき、地に涼風湧き立つ頃、今泉の七夕はいよいよ本格的な喧嘩七夕に変わる。鉄砲町、仲町組、八日町組、荒町組等の山車が何れも装飾りを取り除き、女・子供を去らしめ、太鼓も粗末なものに代え、五寸位の丸太を幾本も山車の周囲に藤蔓(ふじつる)堅くしめて「決戦準備」をする。
 町々を曳き回す途中、向こうから来る他の集落の山車に出あうと、車と車を正面衝突させて双方が力一杯に太綱を曳く。
屋台を押して押して押しまくる。囃しは益々高く強く響く。双方の力が互角で白熱化すると山車は前輪を宙に浮かし、後輪で立ち上がる。それを倒すまいとして丸太や角材を使って支える頃になると、若者たちの目は血走り殺気立ってくる。平素何の恨みもない顔馴染の間柄でも、丸太や棒をも持った激しい闘争がまき起こる。ついにはナタや鎌等の刃物を振り回し、相手の屋台めがけて殺到するものも出てくる。
 遠く離れて勝負に固唾をのみ、ひとみを輝かしていた女や子供達は拍子木を叩き、地駄ん太踏んで「八日町勝った、荒町負けた」等と囃したてる。この黄色い声援を聞くと若者達は、一層闘争心をかき立てられる。
こうした喧嘩七夕も今(昭和初頭)は町内だけに止まっているが、昔は姉歯橋を渡り高田町に押しかけ、今泉街道の真ん中で毎年血を見る大乱闘をしたものだそうだ―

 七夕の喧嘩は、おおむね午後に始まり、夜たけなわとなる。上の文は昭和初頭ごろの様子であるが、戦後に復活した喧嘩七夕もやり方は前と変わりがない。
 以前の七夕は、七日の午後になると山車の大笹竹をはずし、屋台だけになる。台上には多くの杉丸太を積み、これを「てこ」にする。軽装となり"武装"した山車は、町内を回って一種のデモンストレーションを行う。その後出合った他の山車と、その場で喧嘩となる。


二つの山車を正面から衝突させ、互いに引っ張り合うのであるが、双方の引き綱を引いている引き子達が山車を真ん中にして道路の左右いっぱいに広がり、互いに接近していく。味方と敵の引き綱が交差するとき、ここで引き子たちの小ぜりあいが起こるが、そのまま引っ張っていくのである。引き綱が交差したまま、やがて二つの山車が異様な音を立てながらぶつかる。双方の山車の梶棒が相手の台に突き刺さるが、引き子たちには「ヨイヤサ」の掛け声と共に必死に引く。屈強な若者たちが山車の後ろから杉丸太を「てこ」にして、ぐいぐいと押しまくる。



 双方が力いっぱい押し、かつ引き綱を引っ張りあうので、山車はぶつかったまま片方の車輪が持ち上がり、傾斜する形となる。そこで持ち上がらないようさまざまな工夫をする。「爪」と称する鉄製のパイプの先を刃形にしたものを取りつけ、これを大地に突きさすことによって山車の安定と固定化を図るなどは、そのあらわれであった。
 「喧嘩七夕」は昔から容易には勝負がつかなかった。一時間くらいは普通で、ときには三時間もかかることもあった。見物している一般の人も応援して、引き綱を一本、二本と足して引き合う。囃子方は力一杯、ここをせんどと太鼓をたたき、笛を息の続く限り吹きまくる。喧嘩は、双方が疲れ切って止めるまで続く。ただ、そのころになると、力の勝った方の山車が劣ったほうの山車をのみ込むように、ズルズルと後退させる。だれの目にも勝負が明らかになると、勝ったほうが勝ち鬨をあげる。
 「また勝った、ザマほろげ、またも勝った、ザマほろげ」
 と勝利の声をあげ、これに合わせ「ドドドンドン、ドンドンドドドン、ドドドンドン」と太鼓を連打する。山車は双方とも藤綱が緩み、梶棒もあらぬ方向にゆがめられ、飾りの中心である「あざふ」もちぎれてしまうなど惨憺たるありさまとなる。
 しかし引き子たちは、その山車をいたわるように、自分たちの集落の所定の場所までていねいに引っ張って帰る。そして早速、山車の補修にとりかかり、次の"喧嘩"に備えるのである。
 喧嘩七夕は藩政時代から役人などは不介入の慣例であった。ただ、治安と警備の任にあたった今泉在住の足軽組は六日に七夕を祭り、七日の当日は各自の家で種子島銃の手入れをしていたものと伝えられる。喧嘩七夕に対して万一に備えていたものであろう。
 口伝ではあるが、七夕に関して次のような申し合わせがあったという。
一、 互いにけが、あやまちなきよう申しつけのこと
一、 火の用心のこと
一、 おんな子どもにらんぼうあるまじきこと
一、 石なげあるまじきこと
一、 たいこ破り候者は手前のこと
 なお、明治以降から戦前までの警察も「不介入」を慣例とし、事件が発生し届け出があったときだけ取り調べをしたものという。


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むかし七夕の構造 

 
山車の基礎は四つの木車をつけた車枠と、この上に乗せて固定する樫木の枠組みからできている。これを
「だい」と呼び、高さは大男が腕を一ぱい上げた程度、横巾はほぼ高さに相当し、長さはこれより一間ほど長い。車も木製で直径三尺、中央に丸穴ありこれを芯棒に差し込んで、くさび止めにする。
車は七夕の一ヶ月ほど前から水に漬けてわれ止めを防止を図っておく。
台は山藤をぐるぐると巻き、雑木丸太を差し込んで縒りを加え、がっちり固定した。台の中央に前から後ろへ太い丸太を差し込み、やはり藤で固定して梶棒とした。
 台の上には杉丸太を(長木)を束にして垂直に立て大笹竹を縛る軸柱とした。高くするために軸柱をさらに継ぎ足したが、上にいく程、本数を減らしてだんだん細くなるようにた。軸柱には青竹を何本も縛り付け一番上にもっとも姿のよい青竹をつけて芯にみたてた。


昭和初め頃のけんか七夕

青竹には真赤に染めた色紙を笹がかくれる程飾り付けた。これが大笹竹である。
大笹竹は遠くから見ると空高く燃え上がる火柱の姿である。
 台の四方に「四本柱」という角材を立て、囃子方の乗る屋形をつくった。屋形の前後には唐破風を取り付けた。唐破風のそり具合がそれぞれの山車の特色であった。
 屋形は「あざふ」と呼ぶ飾り物で覆ったが、あざふはしだれ桜を摸倣したものといわれ、独得の古風な美しさを持っている。
大笹竹には真赤な色紙のほか青、黄、赤、白、黒五色の吹流しをつけ、また諸々の願い事を書いた短冊を吊るした。むかしはその年に亡くなった新仏の成仏を祈って紙衣や遺品を吊るしたそうである。
 囃子方は台の上に設けた屋形に乗ったが、道具は太鼓と横笛である。
太鼓は中柱にロープで縛り付け上から叩くようにした。通常大、小二つの太鼓を用いたが、囃子の中心は大太鼓で、この周りに数人の男達が立って威勢よく叩いた。
笛を吹く者は太鼓の左右に板で腰掛けをつくり、これに並んで掛けた。囃子の巧者が元笛を吹いて囃子をリードした。

資料:

陸前高田市史民俗編(上・下)
陸前高田けんか七夕の謎


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